斜陽の窓辺

多くの人の目に触れると都合の悪い人生。

〜6年生-5

この程度のいじめ経験でも、そんな罪を犯した子供を許さない権利はある。

許さないからずっと苦しむ。

苦しんでも良いから許したくはない。

 

私はいずれ訪れる死の淵でも、いじめ主犯を「今でも許さない」と言うだろう。

 

できれば不幸に不幸を重ねた人生を送っていて、その子供も私と同じようないじめに遭っていて欲しい。

そして、いじめられて憔悴しきった我が子を、どうすることもできずに苦しんでいて欲しい。

これが私のいじめ経験で生まれた最高の望みである。


しかし残念ながら、どんなに望んでも、いじめをするような女性は上手く世の中を渡って行ける。

少しでも我が子に危害が加わったと感じれば、倍返しで仕返しをするだろう。

人の痛みを想像できずに、自分本意で自分の為だけの世の中を生きてゆく。


 そもそも自分がいじめた時に限り、いじめられる側に原因があると思っているだろう。

このように罪を回避し正当化させる姑息な思考が働くということは、いじめが罪だということに気付いてはいるのだ。

それでもいじめたい欲望に負け、実行する。



先日2018年2月11日、卒業して35年目にして初めての同窓会が開かれた。


このブログを始めて数ヶ月経った頃に入って来た情報だった。

なんというタイミングで開かれるのだろうと思った。


『C県M市立O小学校 第3期卒業生 同窓会』

そこには5人の幹事の名前が並んでいたのだ。

そして忘れもしないあの名前も。


そりゃそうだよな。

いじめ主犯は35年経つと幹事になって、平気な顔して「楽しかった小学校生活を振り返りましょう」と人々を集うんだ。

これが現実なのだ。


先日のドラマ「アンナチュラル」でもあったが、所詮、いじめた人はいじめたことなんか忘れているのだ。

35年も経った今でも、自分の行いの所為でずっと苦しんでいる人がいるなんて想像もしないだろう。


一層の事、その同窓会に参加して、楽しい思い出を語り合っている参加者の前で、いじめ幹事に宛てたお手紙を読み上げてやろうと考えたが、そんなドラマのようなことをやったところで彼女たちが反省をしたりバチが当たったり、その子供が同じようないじめに遭うことはない。

翌日には、いじめの事実と今も苦しんでいる現実の訴えを酒の肴に、楽しい飲み会を開くだろう。


仮に反省したとして罪が消されたとしても、いじめられた側の傷は消えない。


私のような人間に「あなたを許すことはない」と言われても、彼女たちは何も痛手を負わないのだ。

「へ〜、そうなんだぁ、残念だね〜」くらいは言うかもしれない。そしてまた、酒の肴にされるだけだ。


本来ならば、付けた傷が消えない限り、罪も消してはならないのだ。

だから、私は死の淵に立たされても、彼女たちを許してはならない。

「一生許さない」という重い足枷を引きずって生きて行く。


アホみたい。


何も変わらないのに。