〜6年生-3
この記憶は五年生の記憶かも知れない。
いつだったかなんて、もうどうでも良い話なのだけれど。
北側の校舎の二階あたりだった。
教室ふたつ分くらいの広さの図工室がある。
その隣には小さな部屋があり扉ひとつで図工室と繋がっている。
教室の1/3もない広さの「準備室」と書かれたこの部屋には、鍵のついた戸棚の中に何に使うかわからない機械が幾つか並んでいた。
放課後、この準備室に呼び出された。
中に入ると何人ものクラスメイトが輪になって並んでいた。
よく見渡すと隣のクラスの子もいた。
私を虐めている主犯格の女子の前に立たせると入り口の扉が閉まる音がした。
「あのさ〜ちょっと気持ち悪いんだよねぇ。」
「いい加減こっち見て笑うのやめてくれる?」
「あんたの家、線香臭いし汚いんだけど」
それ以外の言葉はもう忘れてしまったが、この言葉を理解してはならないと必死で拒絶し続けた。
今でも人の話し声を聞き取ることが難しい。
いくら集中して聞き取ろうとしても、言葉が耳から頭へ行く途中で、モワ〜っと何か重い霧のようなモノが脳みそを取り囲み、人の声を言葉ではなくタダの音にしてしまう。
その日、何人もの同級生にどんな言葉を浴びただろうか。
宴もたけなわ、そろそろ言いたいことも無くなってきた虐め主犯が最後にどうしても私にやらせたかったことを要求してきた。
「土下座してくれる?」
何が何だか、事の顛末がわからない。
「土下座」とはどの様な状況でどのタイミングで誰が何のためにするものなのか。
虐め主犯の主張はこうだ。
「あのさぁ、みんなわざわざ放課後に集まったんだからねっ! この子なんか塾をサボってまで来たんだよ! 土下座しなよ! 謝りなよ!」
理解力のない私には、彼女の言っていることが本当にわからなかった。
なぜここにきて土下座なのか?
なぜこの子は塾をサボらなければならなかったのか?
なぜ虐め主犯はこんなに威張っているのか?
ただ俯いて黙っている私に威張っている女子が『みんなが注目している中で私の顔を潰すなよ』という圧力を込めて説得する。
「あのねぇ、1組の◯◯さんは呼び出した時、土下座したんだけど。みんなわざわざあんたの為に来てあげてんのっ!」
尚更、意味がわからない。
これは各組に一人選出された人が呼び出されるシステムなのか。
皆んなが土下座の瞬間を見逃しまいと目に力が入る。
この要求を拒否したら殴られるだろうか?
蹴られるだろうか?
殺されるだろうか?
震える声でボソボソと「わざわざ…来てくれて…ありがと…」と囁くように声を漏らした。
震えながらも、しかし何故か土下座はしなかった。
殴られても良い、蹴られても良い、殺されるのは嫌だけれど致し方がない。
こんなことを考えながらも土下座だけはしてはならない気がしていたのだ。
当然、私のような人間がプライドなんてモノを持ってはいけないということは、しっかり学んでいる。
自分の意思を表してはならないことも知っている。
それでも「土下座をしない」という選択をした。
これは小さな小さな、もう握りつぶされてしまったプライドの残りカスのようなものだった。
涙が落ちそうになるのを堪え、目の前に立つクラスメイトの上履きの先に目を落としたままジッと動かずにいた。
その後の記憶は無い。
どうやって解散したのか、どんな気持ちで帰宅したのか、どんな顔で母と顔を合わせたのか。
こんな日でも、母には心配をかけないように必死だっただろう。
この世界に味方はいない。
逃げ場所は何処にも無い。
助けてくれる人もいない…という考えは無かった。
自分を助けようとする人がいるかも知れない、などという淡い期待すら持てないほど、この世界は私を睨みつけていた。
違う世界があるとは思いもしない。
どこへ行っても自分はこのような扱いを受ける。
まだそうではない人たちも、心の中では「いつか虐めてやる」と待ち構えている。
それが当たり前の世界だった。
呼び出されて虐められて有難うと言いながら土下座をする世界が現実だった。
人に土下座をされて喜ぶ小学生が三十年以上も前から居ることに、賢い大人たちは気付いているだろうか。