斜陽の窓辺

多くの人の目に触れると都合の悪い人生。

3年生-3

今はどうなっているのか見当も付かないが、当時は学校から自宅までの道のりの殆どが畑道だった。

そんな畑道に住宅が数軒立つようなエリアが点々とあり、学校にほど近い住宅の向かいに公園でもない駐車場でもない小さな空き地があった。
そこには石でできたゾウさんとウサギさんだっただろうか、ポツンと二体並んでいた。

まだ無邪気な私は給食にパンが出ると、それをポッケやランドセルに詰め込んで帰り道にその石の前にコッソリと置いて帰った。
すると翌日には無くなっている。
恐らく野良犬か野良猫が空腹の足しにしたのだろう。
自分の想像以外の現実に考えが及ばない私は、そのウサギさんとゾウさんが食べたものだと疑いもせずにパンが出る度にお供えをしていたのである。

人に気付かれないような可笑しな行動はこれだけではない。
この頃の私は小銭を土に埋めていた。
この辺りはまだ農家の家も多く、膝くらいまでの石垣に生垣がずっと続くような家も数軒建っていた。
駄菓子屋さんへ行った帰り道には、大きな農家の生垣の下に小さな穴を掘って、そこへお釣りをバラバラっと入れて塞いだ。
例の崖の下にも何ヶ所か埋めてある。
お小遣いが無くなったら掘り返せば良いのだ。
目印の見当は付けなかった。
そんな事をすると他人にバレてしまう可能性があるからだ。
勿論、当然の如くアホな私は数週間もするとどこに埋めたのかわからなくなる。
誰々の家の生垣…崖の下のこの辺り…と大雑把な記憶は残っていたが、埋めた場所の目印は何も無い。
彼方此方と木の枝で掘り返してみたが、一銭たりとも出てきた試しはなかった。
アホ加減が相当だったのだ。

使うつもりなら、現金を埋めてはならないのだ。
ロマンを求めるなら、数百年後のアホな子がお小遣いを埋めようと土を掘れば、古銭が出土することになるだろう。

人は無意識に、辛い記憶を海馬の奥の奥の奥底へ仕舞い込んで二度と出てこないようにすることがあるようだが、残ってても支障のない寧ろ覚えていなければならない記憶さえも、何処かへ放り投げてしまう子供であった。