〜5年生〜 -1
4年生〜5年生〜6年生まで時間軸が拉げていて、どの学年の記憶なのか不明瞭だけれど、5年生〜卒業までの担任だけは強烈に記憶している。
担任のU先生は無精髭に薄く色の付いた眼鏡をかけて、チンピラがクマの着ぐるみを着たような、何だか変わった男性だった。
私のクラスの担任になる前は姉のクラスの担任だった。
高学年になると毎週水曜日に「お箸の日」が設定され、マイ箸を持って行かなければならなかった。
忘れ物が多い私は宿題同様に一度も持って行けた試しがない。
姉は私と違って知恵が働く。
忘れた時のために割り箸を何本も机の中に忍ばせていた。
そんな知恵のない私は、お箸の日になると姉のクラスへ割り箸を貰いに行っていた。
廊下からチラッと教室を覗くと、無精髭のその担任が怪訝そうにこちらを見る。
上級生の教室がある校舎は、グラウンドがある南側の校舎から渡り廊下を渡って北側にあったと記憶している。
そのせいか毎週水曜日に覗く教室はいつも陰気臭く暗いイメージで、私のような雰囲気を醸し出していた。
廊下付近にいた上級生に小さな声で「おねぇちゃん…」と言うとクラスメイトから呼ばれた姉が割り箸を持って廊下まで出て来た。
ある朝、父親が家に居て母と姉と三人で何やら話をしていた。
そっと近づくと「学校へ行きたくない」と駄々を捏ねている姉に、どうして行きたくないのか理由を訊ねていた。
モジモジしながら側に立っている私に気付いた父親は「お前はいいから早く学校へ行きなさい」と言った。
「おねぇちゃん、学校に行きたくないんだぁ。何で行きたくないんだろう? 」と思いながらトボトボと登校した。
姉は可愛くて髪がストレートで色白で活発で明るくて自由奔放で誰からも好かれて、何よりも皆んなにイジメられていないじゃないか。
それなら行きたくない理由なんて何もないだろう。
その日の給食の時間になって、今日が水曜日でお箸の日だと気付く。
直ぐに6年生の姉の教室へ向かいクラスの男子に声を掛ける。
すると、あの怖い顔の担任が出て来た。
「お姉ちゃんは今日休みだぞ」
ハッとした。
そうだ、今朝行きたくないって言ってたんだ…お姉ちゃん、やっぱり休んだんだ…。
姉のクラスメイトが注目する中、同じ家族なのに…知っていたのに…来てしまった恥ずかしさで、何とか絞り出した言葉が「お姉ちゃん、学校へ行きたくないって言ってた…」
それが、大事件になったのだ。
当日だったか後日だったか、ホームルームの始まった時間だっただろうか、担任に姉の教室へ行くように言われた。
階段を登り教室のドアを開けると、クラスが静まり返っている。
姉は教員の机の横に立たされている。
私もクラス全員の視線を受けながら中へ入って行った。
「お姉ちゃんが学校へ行きたくないって言ったんだよなっ⁉︎」
強烈な威圧感の髭面で睨みつけて来た。
私は何が起きてるのかわからず、とても怖くなり震えながらコクッと頷いた。
姉と二人で教室の前に立たされて、クラスメイト全員が注目する中、どちらかが嘘をついている、というような説教か叱責かが静かに降り注いでいた。
姉は恐らく、こんな担任だから行きたくなかったのだろう。
家に帰ると今度は父親に「何でお前は余計なことばっかり言うんだっ!お前が言うことじゃないだろっ!」と説教をされた。
この担任の何とも幼稚な人間性が、私の担任となった時に、ありありとわかる事になるのだが、小学生にとってはただただ「嫌な感じの怖い先生」というだけだった。
4年生〜
小学校高学年。
父親に連れられて父の知り合いと会った記憶は、この時期だった気がする。
その人は「お姉ちゃんは色白なのに妹は色黒なんだねぇ」と言った。
父親は「こいつは垢が溜まってるから色が黒いんだよ、なぁ」と私の同意を求めた。
服を買いに行った時には、紫色のものを選ぶ私に「こいつはほんとセンスがないな、こんな陰険な色が好きなのかよ」と言った。
私は単に葡萄が好きで、同じ色の紫を選んだだけだったのだ。
その内に何もしなくても
「こいつは性格が暗い」
「陰険だ」
「意地汚い」
「キチガイだ」
「クソミソだ」
などと言われ続けた。
「クソミソ」という言葉を知っているだろうか?
クソでも味噌でも一緒になっている汚い人間のことをそう言うのだそうだ。
そして、私はその名の通りのクソミソな生活をしていた。
既にうつ病になっていた私は、身だしなみに気を遣わなくなっていた。
朝起きて洗顔も歯磨きもせずタンスから服を適当に取り出し着替えて、昨日置いたランドセルをそのまま背負い学校へ行く。
当然ハンカチもティッシュも持たず宿題もやっていない。
学校は必ず行かなければならない場所で「行かない」という選択肢は存在しない。
この時期から卒業までの学校での記憶が散らかり過ぎて、時系列が確実と思える記憶は殆どない。
クラブ活動は裁縫クラブか料理クラブだったと思うが、活動自体も何も覚えていない。
学校では「ケンモツゲリラ」「ケンモツ菌」と呼ばれていた。
放課後は図工室の隣の準備室に呼び出され、何人もの同級生に「家が散らかっていて汚い」「目を合わせるな」「気持ち悪いから笑うな」「触れるな」「喋るな」「土下座しろ」などと多くの注文が出されていたことを鮮明に憶えている。
首に下げた鍵で誰もいないマンションの扉を開けランドセルを下ろすと、そのまま突っ伏して静かに泣いた。
毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日毎日
誰にも気付かれないようにそっと泣いた。
それでも翌日には学校へ行く。
何故なら行かなければ殺されるからだ。
一度でも行かなければ命はない。
私は生きるために学校へ通った。
そして私の最外殻には八人の
八人の悪魔が棲み着いた。
あけおめ。
幼少期〜小学校1年生
幼稚園には幾つから通っていたのだろうか?
近所の子らと一緒に送迎バスでK幼稚園まで通っていた。
この幼稚園のトイレも和式トイレで、胸から膝までの自由蝶番で取り付けられた扉があり、しゃがむとお尻が丸見えになる。
なかなかのハラスメントだったこのトイレに入ると、屈んだ状態で教室内が見えるため気になって外の様子を伺いながら用を足した。
幼稚園にはお弁当を持って行った。
冬はストーブの上に乗せて温めてくれるので、皆アルマイトのお弁当を持って来ていた。
誰もがそうだと思うが、お弁当を食べ終わると午後は必ず急激な眠気に襲われていた。
しかし寝るわけにはいかない、ということは理解していた。
この現象には散々悩まされていたが、ある時フッとこの眠気に勝つ方法を思い付いてしまった。
瞬きは目を瞑って開いての繰り返しだ。
この目を瞑っている時間を長がくすることで、その時間だけ眠ることができる。
周囲はまさか寝ているとは気付かないだろう。
絶対にバレることなく眠れる完璧な方法だった。
そして、ある日の午後お遊戯会の練習場へ向かう廊下でこの方法を実施した。
完璧な方法はおデコにタンコブを作ることで終焉を迎えた。
自分の実施した方法で起きた事故だったことが恥ずかしくて、痛くて泣きたいのを我慢して澄ました顔をしていたが、この方法はたった一回で永遠に封印したのである。
2年生の夏まで通った小学校の思い出は殆ど残っていないが、唯一強烈に記憶している出来事がある。
朝は恐らく姉と一緒に登校していたのだろう。
下校は時間が異なるせいか、近所の男の子と校門の前で待ち合わせして仲良く帰っていた。
ある日の日曜日、母が一階の和室で昼のメロドラマを見ていた。
その後ろでパンダちゃんのぬいぐるみと遊んでいた私は何となくテレビの画面に目を移した。
そこには女性と上下白の服を着た男性が登場して何かを話していた。
当然、話の内容はわからなかったが、何故かその男性が凄く気持ちの悪いキャラクターで嫌な気持ちになった。
翌日、学校の帰りに校門の前で男の子を待っていると、いつものように走ってやって来た。
全身白の服装で。
その姿にかなりのショックを受けた私は暫く思考停止の状態だったが、途中の坂道で我慢が出来なくなり、いきなり叫んだのである。
「もう、一緒に帰ってあげないんだからね!!!」
そして、その男の子の反応も見ずに全速力で自宅まで走り去った。
男の子からしたら、もう何が何だか分からず突然に嫌われたのだから堪ったものではない。
しかも理由がとんでもない濡れ衣である。
それから間もなく引っ越すことが決まり、その子とはそれ以来一度も会っていない。
訳もわからずいきなり嫌われてしまった男の子の気持ちを思うと本当に申し訳ない気持ちになるが、相手が私なら何が起きても不思議ではないのだ。
この頃から、ちょっとアレな感じの片鱗はあったのだろうか。
子供はこんなものだという意見はよく聞くが、その中に本当の方のアレな子供が居るとは誰も気付かないのだ。
2017年もあと2日で終わります。
この一年、思い出したら恥ずかしいことも腹が立つことも自分が正しいと思い込んで他を否定するような哀れな人の相手をしてきた人も、多くのストレスが矢のように降り注いだことでしょう。
それでもジッと自分の足元の土を耕して来た人が多くを実らせ収穫できるような豊かな人生を過ごすことを信じています。
来年も他者を気にせず自分だけの大切な土を耕していってください。
ここに来ていただいた方が実り多き良い一年でありますように祈っています。
幼少期-1
私の住んだ土地の中で最も古い記憶に刻まれている場所は、小学二年生の夏まで過ごしたC県M市N町だ。
そこはT工業という大きな鉄工所の隣に設けられた土地で、コの字型に5区画の住宅が建てられていた。
その一番奥の突き当たりが私の家族が住む家だった。
二階建てで中央にあたる位置に玄関があった。
木でできた扉を開けると目の前に階段、その左側に和式のトイレ、右側には6畳ほどの和室がある。
トイレの左にはキッチンとテーブルが置かれたリビングになっていた。
リビングの左側にお風呂がある。
二階は二部屋で片方は祖母の部屋、反対側には子供部屋があり、姉と二人で使う二段ベッドが置いてあった。
自宅の裏は雑木林が広がり、日中でも日当たりの悪いイメージが残っている。
玄関までのアプローチは薔薇のアーチに囲まれて、庭を潰したスペースには父親が建てた二階建てのプレハブ小屋があった。
一階は父親が金属加工か何かをする作業場になっており、薄暗く鉄と油の匂いがしていた。
作業場の二階には大学生の兄が住んでいた。
兄はとても優しく憧れの存在であり父親の連れ子である。
姉は見た目も性格も私と正反対であった。
明るく活発で色白で、キラキラ輝く真っ直ぐな黒髪の女の子だった。
姉妹格差で差別を受けていた私の目には、何をしても許され褒められ与えられている羨ましい存在だった。
習い事などやらせてもらったことのない私と違って、姉は習い事を三つくらい掛け持ちしており、その中の一つにピアノ教室があった。
その教室には一度だけ連れて行ってもらったことがある。
そこは個人で自宅に開いているピアノ教室だった。
一階の広い部屋に置かれたピアノの後ろにジッと座って見ていたが、その内にトイレに行きたくなった。
モジモジしならが、ピアノの先生に小声で「おしっこ」と伝えるとトイレまで案内してくれた。
ドアを開けて中に入ると、なんとそこには見たことのない謎の白い物体が置かれていた。
近づいて中央の穴を覗いてみると、中には水が溜まっている。
どこの家に遊びに行っても、こんなものは存在しなかった。
これがトイレなのだろうか? と戸惑ったが、それっぽい感じを醸し出していた。
さて、どこにどのように済ませれば良いものか。
モジモジしながら悩んでいると、遂に両脚の内側がジワーっと暖かくなり、足元はビショビショになってしまった。
この時が洋式トイレとの初対面だった。
その数年後、十代半ばになった頃にC県にあるI駅の駅ビル内の公衆トイレにウォシュレットが設置された時は度肝を抜いた。
個室のドアを開けて中を覗くと、いつもの洋式トイレの脇に何やらボタンの並んだ装置が付いていた。
物珍しく試しに水を流してみようと思い、一つのボタンを押したら便器が水芸を始めたのだ。
ビックリして止め方がわからず慌てた私はトイレのドアを閉めて逃げるように立ち去った。
思い出す度、懺悔の思いで胸が痛くなる体験である。
私くらいの年代に聞く「洋式トイレ初めて物語」は数々のドラマがあり、なかなか感慨深いものである。
3年生-4
小学生が習う常用漢字は、私にとってかなりのハイレベルだった。
漢字練習帳に何度も同じ漢字を書いていると、感覚が麻痺してくる。
正しく書こうとしても手が勝手に、似ているけれど違う漢字を書き出す。
この感覚が何とも気味が悪い。
勉強が苦手な私の典型的な出来事があった。
年に数回行われるテストで、国語の問題に「[様子]という漢字を使って文章を完成させなさい」というような問題があり、隣に例文も書いてあった。
例:妹の様子を見に行く
私の答え
お手伝いをしている様子◯
遊んでいる様子◯
可愛い様子✖️
髪が長い様子✖️
ピンク色が好きな様子✖️
「様子」の読み方も意味もわらない私は、例題を見て「はは〜ん、なるほど。妹の[さまこ]ちゃんを見に行ったのね。きっと[さまこ]ちゃんのことを想像して書けば良いんだ」
しかも「様子」=「ようす」と読むことができなかった私は、当然の如く「様」を「よう」とは読まず「ようこちゃん」にはならなかった。
こうして授業を受けていても、何一つその身に留まることなく流れ落ちていくような捌けの良い脳みそを育んでいた。
この頃はまだ父親が数ヶ月に一度くらいは帰って来ていただろうか。
久し振りに帰って来た父親が隣の部屋から「お〜い!いま何時だ?」と尋ねてきた。
時計の針をジーっと見つめる。
なんじ? 長い針と短い針と細い針。
どんなに見つめても答えが見つからない。
父親はいつまでも返事をしない私を見に来た。
時計をジーっと見つめたままの私。
「おまえ、時計が読めないのかっ!」
隣の部屋へ戻った父親は母に大声で怒鳴っていた。
「おいっ! こいつ時計が読めないぞ! 小学校三年生にもなって時計が読めないとはどういうことだ!」
何時か分からないということは大変なことなんだとその時に初めて知った。
ここまで来ると可愛らしい子供の頃のよくある話でもなくなってくる。
脳のどこかの機能がどうかしちゃってる子、になったのだ。
3年生-3
今はどうなっているのか見当も付かないが、当時は学校から自宅までの道のりの殆どが畑道だった。
そんな畑道に住宅が数軒立つようなエリアが点々とあり、学校にほど近い住宅の向かいに公園でもない駐車場でもない小さな空き地があった。
そこには石でできたゾウさんとウサギさんだっただろうか、ポツンと二体並んでいた。
まだ無邪気な私は給食にパンが出ると、それをポッケやランドセルに詰め込んで帰り道にその石の前にコッソリと置いて帰った。
すると翌日には無くなっている。
恐らく野良犬か野良猫が空腹の足しにしたのだろう。
自分の想像以外の現実に考えが及ばない私は、そのウサギさんとゾウさんが食べたものだと疑いもせずにパンが出る度にお供えをしていたのである。
人に気付かれないような可笑しな行動はこれだけではない。
この頃の私は小銭を土に埋めていた。
この辺りはまだ農家の家も多く、膝くらいまでの石垣に生垣がずっと続くような家も数軒建っていた。
駄菓子屋さんへ行った帰り道には、大きな農家の生垣の下に小さな穴を掘って、そこへお釣りをバラバラっと入れて塞いだ。
例の崖の下にも何ヶ所か埋めてある。
お小遣いが無くなったら掘り返せば良いのだ。
目印の見当は付けなかった。
そんな事をすると他人にバレてしまう可能性があるからだ。
勿論、当然の如くアホな私は数週間もするとどこに埋めたのかわからなくなる。
誰々の家の生垣…崖の下のこの辺り…と大雑把な記憶は残っていたが、埋めた場所の目印は何も無い。
彼方此方と木の枝で掘り返してみたが、一銭たりとも出てきた試しはなかった。
アホ加減が相当だったのだ。
使うつもりなら、現金を埋めてはならないのだ。
ロマンを求めるなら、数百年後のアホな子がお小遣いを埋めようと土を掘れば、古銭が出土することになるだろう。
人は無意識に、辛い記憶を海馬の奥の奥の奥底へ仕舞い込んで二度と出てこないようにすることがあるようだが、残ってても支障のない寧ろ覚えていなければならない記憶さえも、何処かへ放り投げてしまう子供であった。
3年生-2
今思うと、あのギョウ虫検査が二つ目のターニングポイントとなった気がする。
が、それに気付くのは35年ほど経ってからだ。
(一つ目はまた別の機会に…)
兎にも角にも、私はまだ無邪気さを残していた。
家から学校までは徒歩30分くらいだったように思う。
指定の通学路は学校と反対方向の舗装された坂道を登って行く。
私はすぐ裏にそびえ立つ崖を登って行った。
人が一人やっと通れるようなケモノ道の崖で、こちらを通ると1時間くらい短縮できた気分になるからだ。
実際は5分程度だろう。
この崖には命の恩人(?)が眠っている。
夏の暑い日に崖を下りて行く途中、特大のアオダイショウと鉢合わせをしてしまった。
私はその場で固まって立ったまま死んだふりをした。
言うまでもなくアホ丸出し。
瞑った目を蛇に気付かれないように薄っすら開けて見ると、鎌首もたげて微動だにせず照準を合わせグッとこちらを睨んでいる。
しかし、死んだふりにも限界がある。
頬を流れる汗がむず痒くて動きたくてたまらない。
炎天下の中、永遠とも言える長い時間が流れていったその時、なんとトカゲが目の前を走って横切ったのである。
向かって右側は何も無い絶壁。
左から走り出して来たトカゲは、そこから両脚を広げてダイブしたのだ。
その動きに、たまらずアオダイショウも絶壁からダイブ。
あの光景は今でも鮮明に覚えている。
一匹の小さなトカゲのおかげで命拾いをしたのだ。
私の運はこの時30%くらいは使ってしまったのかも知れない。
まだ、生き延びたことに喜びを感じられる無邪気な小学生だった。